|
私のような、高等小学校の学歴しかない者が、国立大学の先生になるのですからビックリしました。昭和三十二年のことです。藤喜三太、大野健一、立山一則、田副正武と名乗る佐賀大学の学生四人が私のアトリエを訪ね「佐賀大学特設美術科にデザイン科が新設されたので、先生になってください」と言うのです。 「ぞうたんのごと(冗談でしょう)私のようなもんが国立大学の先生な?」と答えますと、彼らは「大学の許可を得てお願いに来たのです。非常勤講師だから講義料も安うございますが、ぜひ来てください」と真剣です。 あの当時の佐賀大学特設美術科は特別講師に海老原喜之助、香月泰男(油絵)古賀忠雄、小田部泰久(彫塑)鈴田照次(染色)の各氏をはじめ、教授陣も石本秀雄(油絵)滝一夫(陶芸)緒方敏雄(彫塑)といったそうそうたる顔ぶれの先生が並ばれて、まるで大学ルネサンスの感がありました。 私に声がかかったのは、新設のデザイン科に実技の授業がなく、学生たちが豊田勝秋教授(金属工芸・鋳金)の強い支持を得て先生を探していたというわけです。当初は文部省も「大学卒でないと・・・」といった渋い返事だったらしいのですが、実社会経験二十年以上なら国は認めるということになったそうです。 「これからは生活に密接した実践デザインの時代が来る」と、実技教育を重視されている豊田先生のことや、私を呼ぶために学内で署名活動までしたという学生たちの話を聞いているうちに「あんたたちがそげんまで考えてくれとるとなら、やってみるか」ということになりました。 翌三十三年から佐賀大学に行くようになりましたが、「キャンパス」とか「コンパ」「前期後期」「単位を取る」「留年」などの大学用語が分からなかったこと。それと驚きましたのは、学生数が十五人ぐらいしかいなかったこと。佐賀大学だから佐賀出身の学生が多いだろうと思っていたら、全国から集まっていたこと・・・などです。 もうそのころの私は忙しい毎日で、佐賀行きの発車時刻ギリギリまで仕事をしていました。ある日博多駅から急行券を買う暇もなく、三等キップを握って飛び乗りますと、金筋入りの帽子に白手袋をはめた、いかめしい助役さんが近寄ってきます。よく見直せば小学校同級生の林久幸君(後に小倉駅長)だったのです。 「ほう、あんたが大学の先生になったとな」と、お互いに励ましあいました。 ![]() 講義中の私 (1993年 画家 著書より) |