第四十九回

  

 「♪こんにちは こんにちは 西のくにから」
三波春夫が歌う万博テーマソングの名調子にのって、昭和四十五年(1970年)大阪で、歴史的な万国博覧会が開かれました。

 話は、その年から五年ほどさかのぼった昭和四十年の大みそかのことです。年越し準備に慌ただしいわが家に、一通の手紙が舞い込みました。差出人は財団法人日本万国博覧会協会会長・石坂泰三とあります。

 中身は「五年後に開かれる万国博のシンボルマークを指名コンペ(競作)方式で作ることになったので、あなたもぜひ参加してほしい」というものです。指名者名簿は十七人で、当時のわが国デザイン界を代表するプロデザイナーがずらり名を連ねていました。

 選考委員は勝見勝(東京造形大学教授)が委員長で河野鷹思(女子美大教授)、丹下健三(東大教授)、桑原武夫(京大教授)など日本を代表するデザイン評論家や作家・建築家などの諸先生でした。

 こんな豪華な顔ぶれの中に、九州からただ一人わたしが選ばれたというのは、なぜだろうか。降ってわいたような突然の指名に、しばし首をかしげましたが、恐らく日宣美(日本宣伝美術会)の中央の先生方が推薦してくださったのだろうと思いました。あのころ私は日宣美の審査員になっていましたが、博多弁丸出しのため、東京の先生方から見ると九州人の代表みたいな印象を与えていたからかもしれません。

 九州人の代表みたい、という話でその時思い出しましたのは、展覧会の審査の時、こんなことがありました。

 毎年、十五人程度の審査員が、全国から送られた何千点という応募作品を審査するわけですが、その中には見覚えのある九州の作家の作品も出てきます。そんな時私は、自分でひいき目に推すわけにもいきませんから「どうかうまく入選するように」といつも心の中で祈っているわけです。

 ある時、東京の有力な先生が「うーむ、この黄色はどんなもんかなあ」と腕組みして、うなっています。ここで落とされてはなるまいぞと、私は慌てて先制攻撃に出ます。

 「先生、この作品はキナがきれいかですなあ」「きみ、キナってなんだい」「キナはキナですたい。黄色のことですたい」「きみぃ、そんな言葉は東京じゃ通らないよ。キイロかレモンイエローって言いたまえ」「そんなら、正月のもちにつけて食う黄色の粉ば、なんて言いますか」「あれはキナコだろう」「ほら、やっぱりキナでっしょう。キイコとは言わんでっしょう・・・」

 なんとかパスさせてもらいたいばっかりに、生来のガラガラ声を張り上げながら小理屈こねて食い下がったりしたものです。日ごろから万事こんな具合ですから、先生方の西島に対する印象が強烈だったのだと思います。

 世界の国々が参加して開かれる万国博覧会のシンボルマークは、毎回開催ごとにテーマに基づいて新しく作られるもので、会場や公式機関の紋章となるだけでなく、ポスターや関係書類や商品類にまで広く国際的に使われます。まさに歴史に残るマークだから大変です。

 私のそれまでの作品は大体において、墨絵のニジミやボカシ、デッサンふうな荒いタッチの具象的なものが多く、コンパスで割り出したような幾何学的な作品は発表したことがありません。

 なのに、どうして私が指名されたのか、また考え込んだ入りしましたが「ようし!どうせ九州の田舎侍の作品など採用されんだろう。そんなら思い切り大胆に、今までのマークにはなかったような刷毛(はけ)目のあるものでも描いてみるか!」と。ある日、和紙を広げて大きな筆で「世界は一つ!」と口ずさみながらポタリと墨を落とし、その下に一本線をグイッと引っ張ったのです。



(1993年 画家 著書より)


  

 

   
  


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