第四十回

  

 「日宣美」に出品して入賞したら、それが肩書きになって就職試験もパス、おまけに給料も高くなるというような風評が東京の学生の中に広がり始めたころ、あの安保闘争です。

 その余波は、全国どこでも「何でもつぶせ」というふうに広がり、とうとう私たちの「日宣美」も「既成の権威である!」とのことで、矛先が向けられれました。

 その年の七月、東京渋谷の高校講堂を借りて、十四人の審査員が第十九回日宣美の審査会をひらいていましたところ、ヘルメットに手ぬぐいの覆面をした青年たちがぞろぞろと入り込んで来て、いきなり「われわれはァ、にっせんびをふんさいするためにィ・・・」と、携帯マイクで叫び始めたのです。彼らは多摩美術大や武蔵野美術大の学生など三十七人で「日宣美粉砕共闘委」と名乗り、押し問答となった末、審査は中止せざるを得ないありさまとなりました。

 彼らの言い分は「日宣美は今や日本のデザイン界に君臨する権威となっていて、日宣美に入選しなければ一人前のデザイナーとして認められないというのが現実である。審査員はどのような基準と論理で作品を選ぶのか」といったものでした。しかし彼らの批判は、すべて既成の美術団体に言えることのようでもあります。

 「全国の若いデザイナーの登竜門」と考えてやっていた展覧会を、同じ画学生がつぶすというのですから「自分たちで自分たちの道を壊しているようなものではないか」と私は思ったりしましたが、「日宣美」を解散するか、しないかの最終全国総会が富士山ろくの御殿場であり、結局「解散」に決定しました。

 それにしても、グラフィックデザインという職業の人は、何もかも率直で、頼もしくも感じました。しかし、東京での展覧会がなくなると、九州への情報が遠くなり、デザイナー同士が腕を競うチャンスもなくなります。

 そんなとき、昭和四十五年、九州文化協会から「グラフィックデザイン展を九州・沖縄各県で開催したらどうか、費用の補助もしてやろう」という渡りに船のお話です。これはありがたいと、それまで「日宣美」と「二科」に分かれたり、あるいは、公募展には出品しなかった人たちも集まり、「第一回九州・沖縄グラフィックデザイン展」を催すことに奔走したのです。


(1993年 画家 著書より)


  

 

   
  


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