第三十一回

  

 いよいよ、旅館商売の片手間に本格的図案の仕事に励む毎日が始まりました。

 そのころの印刷屋さんは、紙さえうまく手に入れれば勝ちという感じで、私の仕事も小学生ノートの表紙や女学生向きの便せんの表紙絵をかくことが多かったようです。

 終戦の翌年、昭和二十一年秋には新天町が誕生し、岩田屋もそして市内の各商店も次第に活気を帯びてきて、福岡商工会議所主催の包装紙デザインコンクールが開催されることになり、これが私にとっては、もってこいの登竜門となりました。

 おかげさまで仕事も順調で、夏には長女が生まれましたし、父も安心したようにいつも私が絵をかいている横に座ってジーッと見ていましたが、その年の暮れ、六十一歳の若さで他界してしまいました。

 もう少し頑張っておれば、食糧事情も医療もよくなって、長生きできたろうにと悔やまれてなりません。

 父の死から半年ほどたった昭和二十三年七月、長兄・荒太郎がやせこけてソ連から復員してきました。

 終戦の年八月、平壌の野砲連隊で弟・司郎と奇跡的に遭遇し「生きている」とは聞いていましたが、それからすでに三年を経過しており、その後のソ連抑留者の報道は悲観的で過酷な話ばかり…。その兄が、元気で帰って来たのです。

 弟と別れた兄は幸運にもシベリア奥地へは送られず、ウラジオストクに近いオキアンスカヤという所に抑留され、そこでは陸軍のラッパ手を勤め、持ち前のユーモアと器用さでロシア語も少し勉強し、通訳の補助役もやって他の兵隊さんより、いくらか栄養にありつけ、生きて帰れたようでもあります。

 兄は、ソ連での苦労話が一通り終わったところで、二○加旅館の経営について発言しました。

 「売り上げは、みんなで平等に分けとろうねぇ。主人だけがうまいものを食うたらいかんゾ」と言い出したのです。

 理屈を言わない、難しいことはしゃべらないのが私たち西島兄弟の特徴と思っていましたのに、これは大変なことになりました。あの楽天的でおおらかな兄が「平等」を語りだしたのには驚きました。

 私が体験した英軍占領下の自由な収容所生活とはまったく違い、かなり難しい教育を受けてきたようです。

 しかし半年もしないうちに、兄は私よりもうまいものを食べて、どんどん太ってしまいました。  

おおらかな実兄、荒太郎

(1993年 画家 著書より)


  

 

   
  


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