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たばこは刻みのままの配給で、英和辞典の紙を一枚ずつはがして、自家製の「手巻き機」で巻きました。父はナスの葉を乾燥させ、それを刻んで混ぜているようでもありました。 そのころはすでに、進駐軍が板付飛行場を中心に駐留しており、若い日本女性を乗せたアメリか兵のジープが博多の街を軽快に走っていました。 時々アメリカ兵が私の旅館にも泊まりに来て、チョコレートやたばこのラッキーストライクを置いていきましたが、私にはまだ、どうも抵抗があって口にできませんでした。 ヤミ市にはなんでもあり、密造酒のバクダンやカストリが公然とまかり通っていて、衣料品、銀シャリ(白米ご飯)洋モク(外国たばこ)…戦時中の鉄カブトを改造したナベまで売っているとのことでした。 混とんとした毎日が一段落してから、兵隊に行くまで勤めていた広告社に復職することにしました。国民服に編み上げの軍靴での出勤です。弁当は、メリケン粉にヒジキを混ぜて、フライパンで焼いた大きなパンでした。 昼は会社に勤め、夜は遅くまで旅館の番をする毎日が続くようになり、父も少し中風気味の体ではあるし、このさい会社をやめて、旅館の手伝いをしながら図案を描いたらと思い立ち、「向かいの伊藤さんの長女を嫁にもらって、加勢してもらうようにしたい」と父に相談しました。 伊藤さんなら、子供のときから向かい同士で家ぐるみの付き合いですし、お互い気心も知れているので、嫁に来てもらえればこんな好都合はない、ということになりました。 私はパッと人生が明るくなったようです。それから一年後に広告社を退社、旅館の一室を仕事場として「ニシジマ図案社」を開業したのです。 幸い仕事も多く夜業続きで頑張り、月に六千円ぐらいの収入となり「自営してよかった」と思ったのですが、やがてパッタリ仕事がなくなって、「やっぱり会社の給料のほうが安定しとるなあ」と思ったりしたものです。
(1993年 画家 著書より) |