
わが家へ帰るのが何となく怖く、ボンヤリ築港まで歩いてみましたら、呉服町から浜側はほとんど焼けていますが、わが家に近い祇園町辺りは残っているようです。 駅前から電車道伝いに、住吉方面へ次第に近づいて行きました。懐かしい瓦町の二○加旅館のあった場所は焼けたはずはありませんのに、建物はまったく姿を消して、空き地に庭の石だけが残っていました。どうしてかいな? ひとりたたずんでいますと、「伊三雄さんじゃなかね!」 出征するときまで亡き母のようにお世話になっていた、向かいの伊藤のおばさんです。 「よう帰って来たねえ!そっちはお父さんも豊子さんも、みんな元気にしちゃるバイ。ここの家は、あなたが海軍に行ってすぐ疎開になってしもうて、いま住吉の電車通りに移ってござる」とのこと。 疎開というのは、米軍機の空襲による延焼を予防するため、住宅密集地帯の民間家屋を強制的に立ち退かせて間引きしていたのです。 ホッと胸をなで下ろしながらも、こわごわと移転先の住吉二丁目の家に向かいました。「ありました!」入り口に小さく「二○加旅館」と書いてあります。 玄関のゆがんだガラス戸を開けると、奥から妹が出て来て、すぐ後から父、そして弟も…「おおう!」みんな声が出ませんでした。 弟は私の一年後に陸軍に入隊し、終戦のとき朝鮮平壌の日本軍兵舎で兄と奇跡的に遭遇し、そのまま南下して二カ月後には帰国、妹とともに父を助けて旅館を続け、隣で自転車店を営業していました。 旅館は天井板が全部はがされ、風が吹くと土ぼこりが上から落ちてくるようなありさまです。これは「空襲で屋根を突き破った敵の焼夷(い)弾が天井板で止まって火事になるからはがせ」という軍の命令だったからだそうです。 裏の空き地は畑にして、ナス、トマト、芋などの野菜を植えて自給自足していました。 米はキップ制度の配給米で、足りない分は農家へリュックを背負って、ヤミ米や芋を買い出しに行っているとのことでした。
復員後、裏の畑で(妹、弟、本人)(1993年 画家 著書より) |