第二十八回

  

 復員局での検査が全部終わったところで、天皇陛下御下賜の湯飲み一杯の日本酒と菊の御紋入り羊羹(ようかん)、それに現金三百円をいただいて、私たちの軍隊もいよいよ解散です。あっけない結末でした。

 終戦の年の九月には「海軍二等兵曹ヲ命ゼラレ」いわゆる「ポツダム下士官」が最後でした。

 結局私の海軍生活は、南の果ての戦場まで後続の新兵が送られて来ることもなく、最後まで一番下級の水兵として、食事の用意から厠(かわや)番の連続でしたが、今ではこれが人生の修行道場であったと思っています。

 大竹港で解散した私たちは、広島駅でそれぞれ西と東に別れ「無事家に帰れたら、お互い手紙を出そう」と、しっかり握手しましたが、出征した当時の住家があるのかどうか定かではありません。

 超満員の復員列車の通路に新聞紙を敷いて、熊本の同年兵と座ったり立ったりしながら、乗り合わせたお客さんに博多のことを聞くと、昨年六月の空襲でほとんど焼けたというのです。

 わが家は大丈夫だろうか?…博多駅前に降り立っても、瓦町方面を見るのが怖く、真っすぐに築港の方向へ歩いて行きました。
駅から少し歩くと志賀島、能古島も見えます。見渡す限りの焼け野原には、ぼつぼつトタン屋根のバラックが建っていました。

 ぼんやり港を眺めて石堂川沿いに戻りかけた所に、靴の修理屋さんが座っていて「兵隊さん、靴の修繕ばしていきない」と声をかけられました。
ポケットには大竹港で支給された御下賜金三百円がありますし、少しでもキチンとして家に帰ろうと思いましたので、靴を脱ぎますと、いきなり靴の底をバリッとはいで、代わりの底をクギで打ち付け「ハイ、三百円!」というのです。
兵隊に行く前は、靴の修理といえばせいぜい十円程度でしたから、これにはびっくりしたのなんの。

 「なんごとかァ!靴の半張りぐらいで何が三百円かァ!」と血相を変えて詰め寄りました。
「なにいっ!いま内地はみんな食うか食われるかの瀬戸際ゾ!」一瞬緊迫しましたが、戦争帰りの私のけんが腰が強かったからでしょうか「よかよか。二百円にまけとこう。早う帰んない」ということで収まり、ホッとしたものでした。

 

(1993年 画家 著書より)


  

 

   
  


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