第十五回

  

「昭和十八年十二月一日、佐世保第一海兵団に入団せよ」との赤紙(召集令状)が届いたのです。

会社では「また一人戦場へ出て行く」と惜しみながらも「おめでとう」とさっそく送別会の準備です。その当時の福岡市内ではもうソロソロ米も酒も自由になりません。当時、大分県玖珠郡の宝泉寺温泉なら、鶏をひねり、地酒も白米もなんとか手に入るそうだということになりました。

静かな、ひなびた晩秋の温泉で、久しぶりの白米をいただいて、お湯につかりながら、私のような臆病で体力のない者が、はたして過酷な軍隊生活に耐え得るだろうか?と考えると、床についても寝付かれませんでした。しかし日本男子として、兵隊さんにならねばなりません。

子供の頃から、招魂祭などで陸軍歩兵第二十四連隊(現平和台陸上競技場と旧野球場)の厳しい営門や訓練を見ていましたし、映画や小説で兵隊が殴られるのも知っていましたので、軍隊が怖くてたまりませんでしたが、既に実兄も一年前に小倉の野戦重砲に入隊していました。

私たちの徴兵検査は、そのころ西日本新聞社の裏にあった「記念館」(現福岡中央警察署)で行われ、身長、体重、肺、性病、痔(じ)などの検査で、疱瘡(ほうそう)の緑色の証明書も持って行ったようです。もちろん入れ墨は絶対にだめです。面接の時に陸軍より海軍のほうが体力を使わないですむだろうと、「一里(四キロ)くらいは泳げます」と言ったので海軍に回されたようです。


徴兵検査の結果、私は「甲種合格」より二番目の「第二乙種」です。甲種合格の人は翌年春に入隊ですが、私は「入隊が遅れるか、もしかしたら軍隊にとられずにすむかもしれない」わけです。

ところがなんと皮肉にも、私は甲種合格組よりも一足早く、その年の内に「召集令状」が来てしまいました。

国防色(黄土色)の国民服に戦闘帽をかぶって「祝入団 西島伊三雄君」と書いた赤いタスキをかけてもらい、町内の人たちに送られながら博多駅まで歩いていきました。

「町内のみなさん!あとに残った父と妹をよろしくお願いします!」

歓呼の声に送られて、汽車は黒い煙を残しながら西へ消えて行きました。

(1993年 画家 著書より)

 

    

  

   
  


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