第十二回

  

昭和十六年、私が徒弟生活に入って三年目に太平洋戦争が始まりました。
「欲しがりません勝つまでは」とか「ゼイタクは敵だ」という標語とともに、日常生活も米や衣類が配給制度に変わり、食料品は行列して買わねばならなくなりました。日に日に生活物資が消えて、やがて灯火管制です。夜業をするにしてみ、電灯のかさに黒い布を覆いました。

戦局の深刻化とともに、働く私たちもいつ戦場に引っ張り出されるか分からないため、夜は青年学校と称して、校区の小学校で夜間の軍事教育です。

夜業をやめて学校に行くのが先生に申し訳ないようでしたが、国家の命令です。近所の履物問屋の荻島隆義君、薬局の林俊治君、塗師の半田芳照君、まんじゅう屋の柴田忠臣君、電池会社の森田豊君たちと通学するようになりました。

国語などの一般教養のほかに在郷軍人だった石材屋の国松勘平さんに銃剣術を教わりました。防具を着け、木銃を構えて「ヤァッ!」「前!前!」「後!後!」と前進したり、素早く後退したり。校庭を「駆け足」させられたりしました。

クタクタになって腹を減らし、帰りは皆、必ずうどん屋に立ち寄るのです。しかし私にはそんな小遣いがなく、ソッと逃げたりするのですが
「西島君、一緒に食べていきない。お金は将来返せばよかろうが」と仲間たちにいつも出し替えてもらっていました。
生活物資が少なくなると、レッテルや広告を作る注文も少なくなり、
「海軍へ志願しよう」とか「軍需工場へ行こう」というようなポスターが増え、鉄カブトの兵隊さんや国防婦人会のタスキをかけたエプロン姿、戦車や軍艦や戦闘機、爆撃機などの絵を描くようになっていきました。

やがて満二十歳の徴兵検査です。「鬼畜米英 撃ちてしやまん」などのポスターは描いていましても、自分が軍隊に駆り出されるんは怖くてたまりません。

日本国民として、若者として「甲種合格」しなければ恥ずかしいと思ったり、「乙種で兵隊にならずに済めばよいが」と内心思ったりしましたが、検査の結果は「第二乙種」ということになり寂しい感じでもありました。

(1993年 画家 著書より)

 

    

  

   
  


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