第八回

  

私が小学生当時の、毎月納める授業料は、ハトロンの紙袋に、ひとり通学の者は黒、二人以上は赤で印刷した袋でお安く半額程度でした。
 その赤い授業料封筒にお金を入れてもらうのさえ、人数が多いことを思うと母に申し訳ないようで、そっと差し出したものです。

勉強は姉や兄たちが大きな声で読んでいる本や、歌っている歌をいつの間にか覚えてしまうので、とりわけ机に向かわなくても成績は良い方でした。

冬は兄弟そろって紙ダコを作って揚げたり、パッチン、竹馬、コマなどの遊びです。

春の遠足は、今は博多駅になっていますが、そのころは一面の菜の花畑に囲まれた比恵の山王公園、桜の平尾浄水池(現在の動物園)、博多湾が一望の桜の名島(もとは発電所があり、神功皇居の帆柱石が有名)などが代表的でした。上級生になると四天王寺や宝満山、太宰府天満宮まで歩いたものです。

夏は林間学校です。兄たちは霊場めぐりで有名な篠栗荒田の杉林の中にある山水のプールで泳いだり、勉強したりでしたが、私たちは白砂青松の新宮海岸でした。

秋は校庭での練習を兼ねた小運動会、中運動会。そしていよいよ父兄参観の大運動会です。その当時、福岡市内の小学校では大抵自分の学校の運動会ではなくて東公園(現在福岡県庁がある所)亀山上皇銅像下の広場を使っており、それはそれは盛大なものでした。

とりわけ四人の子供達が出場するわが父は、前日からテント張りに行ったり、良い場所を押さえたり大変な力の入れようです。
応援のカネや太鼓も用意して、お弁当は重箱にごちそうがいっぱい。酒まで添えてありました。会場付近には、ゆで栗(くり)や綿菓子などの露天も出てのお祭り騒ぎです。

この晴れの場所ではやはり個人の能力がハッキリ出る「走りグッチョウ(かけっこ)」の出番を待つ胸のどうきが今も忘れられません。
その合図は「位置について、用意ドン」じゃなくて「オンザマーク ゲット セット ズドーン(ピストルの音)」と、しゃれた英語が使われていたのです。

オルガンに合わせて女の子と一緒に踊る「遊戯」は照れくさくて苦手でしたが、「川中島(騎馬戦)」「棒倒し」は勇ましくて好きでした。
「遼陽城頭夜は更けて・・・」と軍神橘中佐の歌で隊列を整え、会場に堂々と繰り出す時は血沸き肉踊るの感です。ピストルの合図で「ワァッ」と攻め込み、格闘のすえついにねじ伏せられて帽子は飛び、かすり傷を負うたりしましたが、痛いとは思いませんでした。

その頃の日本は、明治二十五年に日英同盟が結ばれていて国名が親英派で「ヨーイドン」の英語の合図だけでなく、イギリスの国歌も教わったりしていたのです。
「ゴットセブ アワグレーシャス キング ゴッセブ ザキング」と歌ったようです。
小学生の私が、意味も分からず耳で覚えた歌詞ですから、ご判読ください。

また、小学校では、家ごとに日の丸を掲げて祝う国民の祝日「四大節」がありました。

♪年のはじめの例(ためし)とて 終わりなき世のめでたさを 松竹たてて門ごとに 祝う今日こそたのしけれ・・・と歌う一月一日の四方拝(元旦際)。

♪雲にそびゆる高千穂の 高嶺(たかね)おろしに草も木も なびきふしけん 大御世(おおみよ)を・・・と歌う二月十一日の紀元節。

♪今日のよき日は大君の 生まれたまいしよき日なり 今日のよき日は御ひかりのさし出たまいし・・・と歌う四月二十九日の天長節。

♪亜細亜の東日出ずる処 聖(ひじり)の君の現れまして古き天地(あめつち)とざせる霧を・・・と歌う十一月三日の明治節の四つです。

四大節の日は授業は休みでしたが、必ず学校で式が行われます。
厳粛な講堂に「御真影開扉(ごしんえいかいひ)」の号令が響き渡ると、校長先生が白い手袋で演壇正面奥に飾られている天皇、皇后両陛下のお写真の扉を静かに開けられると、すかさず「一同低頭!」です。教育勅語の入った桐(きり)箱が持ち出され、紫の袱紗(ふくさ)を外し、ひもがほどかれて「朕思フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト・・・」という教育勅語を聞かされました。声に抑揚をつけながら拝読される校長先生の姿を上目遣いに見ようとするのですが、頭を下げているし、恐れ多くて見ることはできませんでした。

私たちのころは約千五百人の生徒数であった御供所尋常小学校も、博多駅に近い都心にありながら、現在はわずか百五十人ぐらいに減っているそうです。

(1993年 画家 著書より)

    

  

   
  


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