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私の母は博多金屋町(現在は下呉服町)の生まれで、国松家九人兄弟の三女。祖母の話によりますと目がパッチリで肌が白く髪が直黒。「金屋町コマチ」と言われたくらいの、ちょっとしたベッピンさんだったそうですが、私の顔からは想像できません。でも私の頭髪が七十歳の今日までまだ黒くて多いのだけは「母ゆずり」ち思っています。 「あなたおお父さんの名前は?」 「ハイ!西島卯三郎です」 「そんなら間違いない!あなたのお父さんの記事が、大正八年九月十五日福岡日日新聞(西日本新聞の前身)に出ています」。 さっそく新聞社の資料部で調べてもらいましたら、次のような記事が載っていました。 「福岡専売支部局製造工場の細刻(ほそきざみ)男工七十余名が賃金の増額を要求し、要求の許容さらるるまで就業をせずと申し合わせて一同罷工(ストライキ)せし由(中略)職工側にては西島卯三郎、澄川鶴吉、本山竹次郎、吉田幸兵衛、矢野文吉、高瀬長平、吉嗣正夫の七名を交渉委員に挙げ当局に対し一割五分の増額を受けざれば今日の諸物価に対して安全なる生活をなすあたわずと陳情(中略)当局は断然要求をはねつけ同時に職工側交渉委員七名に対し解雇の通知をなし(後略)」 わが父西島卯三郎は、そういう事情でサラリーマンをクビになったようです。大正末期から昭和にかけての日本は、深刻な経済不況、金融恐慌に見舞われ、労働争議や社会主義運動が渦巻いていたころです。専売局をクビになった父たち交渉委員は、生計の道を求めて大変だったことでしょう。 (1993年 画家 著書より) ![]() 昭和17年頃の父と初孫 |